落書きまとめ - 4/11

*依田と芳野 大人編②

「依田、ほんとに申し訳ないけど、バイトブロック使ってもいいか?」

 芳野が手に青いゴムの塊を持って見せてくる。嫌だ……口が強制的に閉じられないようにされるのは、怖い……。じわ、と涙が滲んでしまうと、嫌だよな、と芳野は辛そうな表情を浮かべた。

「でも、ごめん、このままだとお前の口の中傷つけそうで……協力、してくれないか」

 元はと言えば俺がしっかり口を開けていられないのが悪いわけだから、そんな顔はしなくていいのに。それに、わざわざ了解を得ようとするなんてまったく律儀なやつだ。今まで行った歯医者では特に訊かれもせずにそういう流れになっていた。これで頑なに拒否して仮に芳野が諦めて実際に手元が狂いでもしたら、悪いのは俺なのに彼が責任を感じてしまうだろう。そんな思いをさせるわけにはいかない。

「……わかった」

 なけなしの良心で頷くと、芳野はほっとしたように目元を和らげた。

「ありがとな。ちょっと、試しに入れてみていいか? すぐ取るから」

 口を開くよう促され、小さく口を開く。芳野の指でくいっと口内を広げられ、左側の上顎と下顎の間に異物が押し込まれた。

「……ん」
「大丈夫か? 苦しくない?」

 開きっぱなしになった口の中にすうすうと冷たい空気が入ってきて右下の歯に沁みた気がした。口を閉じようと思っても、全く顎が動かない。動かないのは口だけなのに、まるで全身を縛り付けられたような、それほどの恐怖に襲われて、思わず、うっ、と声が漏れてしまった。目の端から涙が流れていく。

「苦しい?」

 首を横に振る。言葉にしなくとも、俺の手がまた小さく震え出したのを見て芳野は俺が怖がっていることに気づいたらしい。とん、と胸元に手が置かれる。

「依田、ゆっくり鼻で息吸って、吐いてみ」

 とん、とん、と胸に伝わってくるリズムに合わせて震えながらも深呼吸してみる。

「そうそう、あと、手は動かせるからな? これ以上は無理だって思ったらこっち、挙げて教えて」

 芳野に左手をそっと掴まれて、ゆらゆらと揺すられる。あ、体が動く。硬直していた全身から少し力が抜けていくような気がした。

「ん、できそうだな」

 芳野が俺の口元に手を伸ばしてバイトブロックを外そうとする。でも、俺はその手を掴んで止めた。

「何もしないよ、一旦外すだけ」
「……も、いい」
「え? 外さなくていいってことか?」

 俺が頷くと、芳野が軽く目を見開く。
 こくりと俺は頷いた。外してしまったら、もう一度入れたときに、気持ちが落ち着くまでまた時間がかかってしまうんじゃないか。そんな予感があった。

「……いいんだな?」

 もう一度俺が頷くと、芳野はライトを引き寄せて俺の口元に合わせる。

「じゃあ、続きしていくな。なるべく早く露髄させて、麻酔入れるから」

 そしたら楽になるからそれまでの辛抱な、と芳野は眉間に皺を寄せた。髄腔内注射する気か。恐らく、総合的に考えてそれが一番痛みが少なく済む方法なのだろう。だが、絶対に麻酔が激痛だ……と、そんなことを考えているうちに芳野はタービンとバキュームを俺の頭の上で構えている。そうだ、麻酔のことを考えている場合じゃない。まずはこれを耐えないといけない。

「いくぞ」

 目で頷くと、バキュームが音を立てながら口の中に入ってきて、口角に引っかけられる。それからすぐにヒュイイイイ……と耳障りな音を立てながら、タービンが近づいて来た。

「んぁっ!」

 麻酔の効いていない患部はタービンの先が触れただけで激しく痛む。肩をすくめ、顎を引いてしまうと芳野の手で顔を元の位置に戻されてしまった。

「あっ、あ、ああっ……」
「さっき練習しただろ? 鼻で息しろ、大丈夫だから」

 手足の先まで力が入って、息を止めそうになっていることに気づく。芳野に言われても、痛みにばかり意識が集中して呼吸の仕方がわからなくなる。痛いのと苦しいのとですぐに涙は溢れてしまった。

「依田、おっきく吸って」
「ん、っう、う」
「そう。で、ゆっくり、ふーって吐いて」
「ふ、ぁ、うっうう」
「そうだよ。声出していいから」

 機械音の隙間から聞こえる芳野の声に合わせて、ぼろぼろ泣きながら喘ぐように息をする。その間にも痛みは絶え間なく襲ってきていた。

「んんぅ……っ」

 じわり、と首を動かしてしまうと、顎を抱えている芳野の手にぐっと力が入った。

「動くのは我慢してな」

 もう……嫌だ……でも、こんな簡単に手挙げるわけには……。ぎゅう、と左手を握り込む。

「ごめんな……もう少しだからな……」

 タービンの先がどんどん深く潜ってきて、一番痛む場所に近づいてきているのがわかる。
 嫌だ、怖い。それ以上触らないでほしい。

「ん、うぅん……!」

 気づけば、右手で芳野の手を振り払おうとしていた。

「依田!」

 芳野が叫んで、すんでのところで手が止まる。一瞬、タービンの音が止まるが、本当に一瞬だけだった。
 
「……あと5秒だけ、我慢してくれ」

 芳野が掠れた声でそう言って、タービンの先が軟らかい患部に押し付けられた。

 ***

「……ん、くぅ、う……」

 バイトブロックが外されて、自由になった口からは泣き声だけが漏れていた。

「依田、休憩しよう。うがいしていいよ」

 椅子が起こされ、芳野の声に促されるまま、コップに手を伸ばす。カタカタと震える手でなんとかコップを掴み、口を濯いだ。
 空になったコップがくしゃりと手の中でひしゃげる。
 何をやってるんだ、俺は。

「……芳野、本当に申し訳ない」

 器具の触れ合う音が止まる。
 芳野は椅子を転がして俺の隣まで来ると、俺の手の中から紙コップを取ってゴミ箱に捨てた。

「気にすんなよ。……んなことより手——」

 両手を隠すように握り込む。本当に、どれだけ情けない姿を見せるつもりなんだ。頼むから、震えくらい止まってくれ……。
 芳野の手がそっと頬に触れた。それだけでびくりと肩が跳ねてしまって、恐る恐る芳野のほうを見れば彼は眉間に深い皺を寄せて唇はぎゅっと固く結ばれていた。

「……麻酔、効いてないよな。ごめんな」

 自分が痛い思いをしているような顔だ。大丈夫だ、そう言いたかったのに喉から漏れたのは聞くに堪えない音で、口元を押さえた。

「ん、大丈夫だ。俺しかいないんだから、何も我慢することねえよ」

 ひどく優しい声が響いて、堰き止められていた何かが一気に決壊した。違うんだ。お前だから、見られたくないのに。聞かれたくないのに。

「……よしの、おれ、……もう、むりだ」
「ん? なに言ってるんだよ、依田」
「できねえよ、こんな調子で……、口も開けらんなくて、動いて……」
「できてるよ、大丈夫だ」
「どこがだよ……!」

 芳野の手を振り払うと、彼が悲しそうに眉を下げる。しまった、と思ったがもう遅い。でも黙り込んでいる俺に芳野は温かく言葉を重ねた。

「依田は頑張ってる。……今までみたいな感じでいいから、もう少しやってみよう、な?」

 今までみたいなって、正気なんだろうか。あの調子で本当に最後まで治療できると思ってるのか。俺は歯科治療には詳しくないが治療がまだ序盤だということくらいはわかる。

「無理だ……最後までなんて、とても」
「……じゃあ、やめるか? このまま帰ってもまた痛くなって、苦しいのは依田だろ。せっかく治そうって、ここまで来てくれたんじゃねえか」
「……」

 諦めの悪い歯科医だ。俺は患者にここまで駄々をこねられたら匙を投げてしまいそうなものなのに。

「……痛いとこ、治したいだろ」

 困ったように笑いながら俺に目線を合わせてくる芳野にゆっくりと頷く。

「俺も、依田を楽にしてやりたいよ」

 芳野の低い声が胸にすっと染み込んできて、目の奥が熱くなる。溢れ出そうな涙を押し留めたくて俺はぎゅっと目を瞑った。

「俺だって、ちゃんと治療を受けたい気持ちはあるんだ」
「わかってるよ」
「……けど、体が、言うこと聞かなくて」

 震える手でシャツを掴む。震えひとつまともに止められない自分に焦燥と嫌悪を強く感じた。

「もう、どうしたらいいのかわかんねえ……」
「……依田」

 芳野が俺の背後に手を回して、自分の肩口に俺の頭を引き寄せた。
 俺より随分と高い体温を感じながら、みっともなく嗚咽を漏らしてしまう。
 
「もういい。お前に、迷惑かけたくない……」
「迷惑なんて、俺は」
「俺が嫌なんだ!」

 芳野を気遣っているような台詞を吐きながら俺はその実、自分のことしか考えていない。友人に迷惑をかけている自分、情けない姿を見せている自分、俺自身がそこから目を逸らしたい。それだけだった。

「……今さら体裁とか気にしてんじゃねえだろうな」

 耳元で響いた一段と低い声に、は、と息が止まりそうになる。

「お前が嫌とか知らねえよ。俺がいいって言ってんだから気にすることないだろ。それでも気にするって言うならそれはお前がかっこつけたいだけって話になるけど」

 全部見透かされているのだ、きっと。返す言葉もなく、俺は頭を上げようとする。が、芳野の手がそれを許してくれなかった。無骨な指が俺の頭をなめらかに滑っていく。

「俺こそ嫌なんだよ。こんな状態でやめんの」
「でも……!」
「お前にもプライドがあるのかもしれないけど、俺にだって歯医者のプライドがあるんだよ。こんな状態の患者を治療途中で放っておけると思ってんのか? わかるだろ、先生」

 わかるよ。わかる。俺は芳野と違ってお人好しじゃないからこんなに穏やかに説得はできないけど、患者を見捨てたりしようものなら寝覚めが悪くなることくらい、やってみなくてもわかる。

「絶対に最後まで付き合ってもらうからな」

 凄みのある口調とは裏腹に大きな手は俺の頭をずっと優しく撫でている。

「恨み言でも泣き言でも、なんでも聞くから。だから、治療だけは最後まで受けてくれよ」

 なんで俺みたいなどうしようもない患者にそんな懇願するような言い方をするんだ。言えることなんて何もない。芳野に文句を言うのはお門違いということくらいわかっているし、今頭の中にあることなんて痛いだの怖いだの恥ずかしいだの、言ったところでどうにもならないことしかない。
 俺は芳野の肩に額を押し付けて泣き声を漏らすしかなかった。