*依田と芳野 高校生編
(芳野Side)
真っ白な進路希望調査の用紙の上にシャープペンを転がした。
どうしたものかな……。窓際の一番後ろの席で頬杖をついてぼんやりと教室を眺める。この後の1限目は数学。当たっている問題の解答を板書する生徒、予習をする生徒、友達と話をする生徒、授業開始までの時間を思い思いに過ごしていた。
机の上にもう一度目を落とす。高3の夏の面談が来週に迫ったこの時期に迷いが生じるとは思っていなかった。あいつがあんなこと言わなければ俺は前回までと同様に地元の大学の医学部を書いてすんなり提出していただろうに。俺にくっついてくる近所の小学生の顔が頭に浮かぶ。医者は医者でも歯医者、か。
「なあ依田、お前虫歯あった?」
タイミングよく、斜め前の席に座っている大里の声が耳を打った。朝のHRで配られた歯科検診の結果の話だろう。大里の左隣、つまりは俺のすぐ前の席に座っている依田の肩がぴくっと跳ねる。俺は思わず頬杖を解いたが、大里のほうを向いた依田の横顔は悪戯っぽく笑っていた。
「どっちだと思う?」
「虫歯あるに焼きそばパン1個賭ける」
「うっわ失礼だなおい」
「だって毎年引っかかってるじゃんお前」
依田は「さあ果たしてどうでしょう」とまるで何かの抽選結果でも発表するように引き出しから歯科検診の結果を引っ張り出すとそれを大里に向けて見せる。
「はい! 虫歯5本でしたー!」
「またかよ。てか増えてね!?」
「いやもう俺の夏の恒例行事だね、歯医者通い。今年も夏が来たぜ」
「何言ってんのかわかんねー」
ポジティブすぎんだろ、と苦笑する大里を依田が可笑しそうに笑う。二人は本当に楽しそうにしか見えなかった。
「大里は? どうだったの」
「俺? ふふ、聞いてくれ。今年はなかった」
「え、まじ?……おめでと」
「どーも」
おめでと、と言った依田は笑顔のまま、声だけが少しトーンダウンしたような気がした。そういえば依田が去年一緒に歯医者行ったって話してたの大里だったっけ……。
「ま、依田くんも早く歯医者卒業できるように頑張って」
「うるせ、偉そうに」
「でも5本ってちょっと心配になるわ」
「おい急に真面目な顔するなって」
「や、だって俺もなったことはあるけどせいぜい1、2本だし……去年も治してんだろ? それで5本とかなるもんなのな」
目の前で繰り広げられる会話を聞いて居た堪れない気持ちになってくる。常日頃から歯に衣着せぬ物言いをする大里のことだ、悪気はないんだろう。それでもこれはきついだろ。誰に言われてもそうだがましてや「こちら側」だと思っていた友人から言われるのは尚更じゃないのか。
さらに話を続けようとする大里に返す言葉もなく顔に笑みだけ張り付けたままの依田を見ると、お節介だとは思いつつもつい口が動いていた。
「大里、俺にも訊いて」
「芳野? え、お前どっちだろうなー」
「大里が当てたら俺がアイス一本おごるけど、外したら大里のおごりな」
「さてはお前がアイス食いたいだけだな?……えっと、じゃあ虫歯あるほうで」
「正解は——」
大里と依田が俺のほうを見てくる。
「ありました。なりかけだけど」
「よっしゃ。焼きそばパンとアイスおごりだからな」
大里がガッツポーズする。
「くそー、後で購買だな。な、依田」
「あ、悪い今日財布忘れた……」
「え?」
「よし、じゃあお前がおごれ芳野」
「は? なんでそうなる」
「悪いな、俺も財布を忘れた。そして昼飯がない」
「まじかよお前ら……」
授業始めるぞー、と教科担が教室に入ってくる。たしか依田って俺と同じでいつも購買で昼食買ってるよな? 今日3人分払うのか、俺。財布の残金を頭の中で思い出しながら進路希望調査の紙をクリアファイルに挟む。ふと前を見ると依田が歯科検診の結果を小さく折り畳み引き出しに押し込んでいるのが目に入った。
***
(依田Side)
ノートを提出してくると言って職員室に行ったきり芳野が戻ってこない。放課後の教室で一人、芳野に教えてほしいと頼まれていた数学の問題を見返す。
数学を一通り確認し終えたので別の教科の予習でもしようかと引き出しから英語の教科書を引っぱり出したとき、何かがはらりと足元に落ちた。今朝配られた歯科検診の結果だ。それを拾い上げて、憂鬱な気持ちが胸の中に広がった。
「依田くんも早く歯医者卒業できるように頑張って」、大里の言葉を思い出す。俺だって……なんで毎年毎年、俺はこうなんだろうってずっと思ってる。いや、原因くらい自分でもわかってる。
甘いものが好きな俺は昔からよく虫歯になっていて、最初は虫歯になったら治せばいいか、くらいの気持ちだった。でも一度治療が痛かったのをきっかけに検診に行くのも怖くなり、でも放置しすぎるのも怖くて、毎年受け取る検診結果を手にしばらく歯医者に通ってひどい箇所だけ治療してはまた行かない。ここ数年はそれの繰り返しで、毎年治療痕と痛い思い出だけが増えていく。自分でも情けないと思っているのに変われない。大里は変わったのに。
また歯医者通いか……。検診結果をくしゃくしゃに丸めて捨ててしまいたい。ぎゅ、と手に力が入る。
「悪い! 依田。担任に捕まって」
タイミングが良いのか悪いのか、ちょうど芳野が帰ってきて俺は持っていた紙を何食わぬ顔で引き出しに隠した。
「お疲れ。なに? 怒られた?」
「ちげえよ。進路調査早く出せって」
「まだ出してないの? お前ずっと医学部一択だっただろ」
「あー……まあな」
俺と芳野はずっと第一志望が同じだった。気まずそうに言葉を濁しながら歩いてきて俺のすぐ後ろの席に腰掛ける。
「この前の模試の判定悪かったしどうしようかなって思って」
「そんな理由?」
「そんな理由」
らしくない弱音にかすかな違和感を覚える。成績は俺のほうが上だけど、芳野もまだ十分狙える位置だったはず。それに受験までまだ半年はある。ストイックな彼がたった一度の模試の出来が悪かったくらいで簡単に第一志望を諦めるというのはどうも腑に落ちない。なんか隠してるな、と思いつつも俺はそれ以上訊けなかった。
「それよか数学のあの問題。教えて」
手早くノートと問題集を机の上に準備して芳野が俺を急かす。俺は後ろ向きに座り直すと問題の解説を始めた。
***
「ありがとな、依田。めちゃくちゃ分かりやすかった」
ノートや問題集をカバンに片付けながら芳野が礼を言う。
芳野は煽てるのが上手い。俺が解説をすると目を輝かせて、お前ほんとすげえよとか言ってきて、気を良くした俺が予定になかった問題まであれこれと彼の質問に答えるうちにあっという間に下校時刻になってしまった。
俺も帰り支度をしていると、また例の紙が教科書の間から顔を出した。歯科検診の結果。折り畳んでカバンにしまう。
「……芳野、ありがとう」
今日一日言いそびれていた言葉をやっと口にすると彼が首を傾げた。
「朝、話逸らしてくれただろ」
朝? そう呟きながら芳野がさらに首を傾ける。少しの間があって、俺が言わんとしていることに思い当たったのか彼が苦笑いをした。
「いや、あれお節介もいいとこだし……後で思えばあんまり話も逸らせてなくて悪かったなって思ってたんだよ」
「そんなことない」
俺は人前では歯のことを気にしていないように振る舞っている。恥ずかしがってもかえって惨めな気がするし、自分から笑い飛ばしてしまえばいつか気にならなくなるんじゃないか、なんて甘い期待もあった。実際には本心を隠すことで心に軋みが出てきているようにしか思えなかったけれど、意地でも続ける気でいた。
芳野は俺のそんなところに気づいているのだろう。はっきり話したことはない。でも高校時代誰よりも一緒に時間を過ごしてきて、あまり人には言わない歯医者通いのことも冗談混じりとはいえ彼にだけは愚痴っていたからきっと気づいたんだと思う。
今朝、俺の虫歯の多さをあれ以上話題にし続けられるのは辛かった。彼の言う通り完全に話を逸らしたわけではないとはいえ、芳野が自分のほうに話の矛先が向くよう誘導してくれて俺はたしかにほっとしたのだ。
「助かった。ありがとう」
芳野をまっすぐ見てもう一度礼を言うと彼は一瞬、居心地が悪そうに視線を逸らす。そして俺に視線を戻すとぽそりと呟くような声で言った。
「……依田。あんまり無理すんなよ」
「無理?」
「その……笑いたくないときは無理して笑わなくていいんじゃねえの」
芳野の低い声が胸にすっと入ってきて、喉の奥になにか熱い塊が込み上げた。
「ごめん、お前だって考えがあってやってるんだろうけど……気が向いたら俺にくらい話せよ、辛いこととか嫌なことでも」
「……俺は、もう十分……話し、てる」
喉が苦しくてうまく声が出せない。喉だけじゃない、目の奥もじわりと熱くなってくる。
「そうか? ならいいけど。まあもし今後そういうことがあったら」
バックパックを背負いカバンを手に持って、じゃあ帰るか、と芳野がにっと笑う。俺は潤んだ目を隠すように頷いた。
***
(芳野Side)
「あ、そうだ。今度の模試終わったらお好み焼き食べに行こうぜ」
帰り道を歩きながら依田に提案すると「日曜だっけ」と返ってくる。
「たしか土日ともじゃなかったか?」
「じゃあ日曜なら。土曜は終わってから歯医者行くから」
「おー、そっか」
「今から気が重い……」
依田が足元の小石を蹴飛ばす。
「俺の行ってる歯医者、怖いんだよ。絶対怒られる」
「あー……なら俺の行ってるとこ一緒に行くか? 優しいよ」
「芳野も歯医者行ってるのか」
「まあ、一応検診に。これでも昔は結構治したからな」
「そうだったのか」
驚いたように依田が俺を見てくる。
「一回めちゃくちゃ治療が痛くてさ。それからまともに検診に行くようになった」
「……俺とは逆だな」
前を向いて妙に穏やかな声で依田がそう言ったので、余計なことを言ったかもしれないと不安になって彼の横顔を確認する。
「俺も治療が痛くて、先生にも怒られて……それから行くのが怖くなった」
「……そっか。頑張って行ったのに怒られたらたまったもんじゃないよな」
「まあ俺が悪いんだけどな。でも……そうだな、芳野みたいな奴が歯医者だったら俺ももう少しちゃんと通えるのかもな」
「俺?」
「そう。歯医者に頑張って来たんだなって認めてくれるような優しい先生。それならちょっとは怖くなくなるかも」
聞き覚えのある台詞だった。俺の進路に迷いを生じさせた台詞。「夏兄が歯医者さんだったらきっと怖くないのに」——それを依田からも聞くことになるとは思っていなかった。