*『古傷とクローブ2』の一晴視点
「一晴、お待たせ」
白衣に着替えて診療室から出てきた晃平を見て、体は硬くなったのに涙だけは滲み出した。それでもなんとか立ち上がり、診療室のほうへ歩いていく。
昨日の夜、想像はしてきた。歯医者さんの晃平、治療のこと、痛いこと……想像してたくさん泣いた。その分今日は泣かないようにするんだ。そう決めてきたのに、もう自信はなくなってしまった。
「中入れる?」
晃平が俯いている俺の顔を覗き込むようにして訊く。声は出せなかったけど頷いた。
一番手前の診療室に入ると、こちらに背中を向けている大きな椅子と、線が繋がった機械が目に飛び込んできた。
震えそうな足で一歩ずつ診療台に近づく。機械が付いている台に、金属製の器具もたくさん準備されているのが目に入った。あれもあるのかもしれない。昔使われた、口を閉じられなくする道具。でも確かめる前に、晃平がその台を遠くへ押しやった。
「座れる?」
「ん」
俺は晃平に背中を支えられながら、なんとか診療台に腰を下ろした。
「一晴は、歯医者さんの何が怖い? 話せそう?」
晃平の手はずっと背中を撫でてくれていた。少し息を整えてから、口を開く。
「押さえつけられるのと、痛いのが、怖い」
「そっか。そうだよね。……他には?」
「あ、あれも……あの、口閉じられなくする道具……」
ちらりと台に目を向ける。あの道具があるのかはやっぱりわからなかった。
「あの道具、使わないでほしい……。自分で、口開けるから」
「使わないよ」
「本当に?」
「約束する」
晃平が俺の目をじっと見て言う。
優しくて裏表がない晃平のことを疑ったことなんかなかった。それなのに、歯医者さんだと意識すると晃平の言うことをすぐに信じられなかった自分が嫌になって、俺は晃平から目を逸らしてしまった。
「他には? しないでほしいこととか、頼みたいこととか」
「……今は、思いつかない」
「じゃあ何かあったらいつでも言ってね?」
痛い歯の確認と麻酔までは、晃平がほとんど痛みなくしてくれたおかげで泣かずに終えることができた。
でも、歯を削られ始めると次第に痛みが出てきた。
「一晴、もう少しお口開けられる?」
沁みるような痛みを感じていつの間にか口は小さくなっていた。晃平に言われ、口を大きく開け直した矢先、チュイッと音を立てて機械の先が歯に押し付けられる。
「あっ」
思わず声が出て、また口が閉じかけた。
「止める?」
機械を口の外に出し、晃平が尋ねる。
「んん……だいじょうぶ……」
マスクをしていてよくわからないけど、晃平はなぜか表情を曇らせた気がした。
「止めてほしいときはすぐ教えてね」
治療が再開されてすぐに、休憩してもらえばよかったと後悔した。痛みはどんどん強くなっていく。でも長く休憩してしまったら、また治療を始める勇気を自分が出せるかわからなかった。
「一晴」
耳元で呼ばれた。優しい声なのに体は硬くなる。また口を閉じかけていることに気づいた。
「おっきくあーん、できる?」
水を吸う道具で頬の内側を押される。
「んぁ、あ、あぁ……」
エプロンを掴んで我慢しようとしてもだめだった。声が漏れて口もすぐ閉じようとしてしまう。自分で口開けるって約束したのに。このままじゃあの道具を使われてしまうかもしれない。両手がカタカタと震え出して息の仕方もよくわからなくなっていく。
「ちょっと止めるよ」
機械の音がやんで口の外に出ていく。晃平と目が合う。表情がわからなくて怖い。
「ご、ごめん……っ」
反射的に謝ると、晃平がマスクを下げた。
「なんにも謝ることないよ」
俺の胸元に手を置き、落ち着かせるようにとんとんと叩いてくれる。怒っていない様子にやっと手の震えは収まっていき、息苦しさも少し薄れた。
「……一晴、提案なんだけどね。暖に来てもらおうか?」
「暖? なんで……?」
「歯医者と二人きりより、暖もいてくれたほうが安心しない?」
正直なところ、晃平の言う通りかもしれないと思った。でも「歯医者と二人きり」という言い方が引っかかる。晃平は記憶の中の歯医者さんとは違うのに。だけどその記憶のことばかり考えて晃平を必要以上に怖がってしまっているのは事実で。暖にもいてほしいと言えばその事実を認めるようで晃平に申し訳ない気がした。
答えられないでいると、晃平がさらに言葉を重ねる。
「暖が来るの、嫌?」
「嫌じゃない、けど……」
「じゃあ暖にお願いするね」
かすかな違和感を抱いてしまった。晃平にしては少し強引だった気がした。晃平が暖を呼びたかったような。もしかして二人きりが嫌なのは晃平のほう……?
「麻酔足してから、暖に連絡しようと思うんだけど、いいかな」
「う、うん……」
晃平が安心したように微笑む。
晃平は、今なにを考えているんだろう。
俺の治療一人じゃ大変だとか、こんな怖がりの相手をするのは疲れたとか?
いや、晃平がそんなこと考えるはずない。俺がまた歯医者さんの嫌なイメージに重ねて想像してるだけだ、きっと。そう信じたいのに、不安を振り払えなかった。
麻酔を足した後、晃平は暖に電話をかけに行っていた。
「暖、来てくれるって。それまでもう少し休憩しようか」
戻ってきた晃平は椅子に腰掛け、俺の顔を覗き込む。握りしめてくしゃくしゃになっていたエプロンを伸ばしてくれた。
「……大丈夫、だよ。続きして」
怖いけど、晃平の気持ちが信じられなくなっている今、俺がちゃんと治療を受けられるところを見せたかった。
晃平はあまり乗り気ではない様子だったけど、俺の意志が固いことが伝わったのか、やってみようかと言ってくれた。
診療台が倒され、晃平が両手に機械を持つ。
「大きく開けてね」
今度こそ頑張るんだ。唇が震えそうになりながらも、なんとか口を開けた。大きな音が鳴り始める。
麻酔のおかげか少し痛みは軽くなっていた。でも沁みるような感じは消えていない。
「一晴、上手だよ」
晃平がそう言ってくれて、口を閉じないようにすることだけ考えようとするけど、どうしても沁みる感覚に意識が集中する。その感覚がだんだんと痛みに変わっていくのもよくわかってしまった。
「っは……」
口閉じちゃだめだ。顎も引かないようにしなきゃ。必死に我慢しようとする。でも歯を削る機械は痛みを感じる場所にどんどん近づいてきて、体は言うことを聞かなくなっていった。
「あ、は、はぁ、は……あっ……」
頑張りたいのに。なんでできないんだろう。泣きそうになって余計に口は開けづらくなる。
とうとう晃平が言った。
「休憩しようね」
口が自由になって診療台が起こされても、後悔だけが残った。
また、できなかった。
「一晴、すごく頑張ってるよ」
晃平はマスクを下げて笑いかけてくれたけど、何度も首を横に振る。
「ごめんね。痛いよね」
「……俺が悪いんだから」
「そんなことない。もっと麻酔を効かせてあげられたらいいんだけど……」
晃平が器具を置いている台に目を向ける。でもすぐに俺に視線を戻した。
「ちょっと、道具取りに行ってくるから待っててくれる?」
体がこわばるのを感じた。道具って、もしかしてあれのこと?
「う、うん……」
晃平が診療室を出ていく。
自分で口を開けられないなら、仕方がない。晃平だってきっと大変だ。
でも、使わないって約束してくれたのに。
「晃平……」
涙が頬を伝った。