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 子どもが苦手だ。
 普段の生活で接する分には問題ないし、むしろ可愛いと思っている。ただ、歯科医師として子どもを診ることに対して強い苦手意識がある。幼児だけでなく、中高生も。それくらいの学生のほうが苦手かもしれない。
 その原因には心当たりがあった。

 大学時代、 俺が歯科助手のアルバイトを始めた頃のこと。
「鳥本一晴いっせいさん、中へどうぞ」
 それは、お母さんと一緒に来院していた中学生の患者さんだった。呼びに行くと、真っ青な顔をしたまま立ち上がる。
「大丈夫?」
 背中に手を添えて尋ねる。どう見ても大丈夫ではない相手にかける言葉でないのはわかっていたけれど、咄嗟に言葉が見つからなかった。
「はい」と小さな声の返事。心配になりながらも、俺は一晴くんを診療室へ案内した。

 一晴くんが診療台に座るとすぐ、担当医がやって来た。院長の次にベテランの、効率重視な歯科医師で、俺は正直なところこの人が苦手だった。
「今日は……左下の奥歯が痛い」
 担当医は俺が渡した問診票を確認し、一晴くんに尋ねるというよりは独り言のように言う。そのまま、一晴くんと目を合わせることもなくスツールに腰を下ろした。
「診てみましょう」
 一晴くんにエプロンがつけられ、診療台が倒される。その頃にはアシストにつく衛生士さんも診療室に入ってきて、俺は仕事を覚えるためにちょうど一晴くんの足元のあたりで待機するよう指示された。
 担当医がパチリパチリと手袋をはめ、ライトがつけられると、一晴くんがお腹の上で強く手を握りしめた。
「はい、開けて」
 小さく開けた一晴くんの口にミラーが差し入れられる。
「ああ、ここね」
 ミラーで一晴くんの口端を引っ張りながら担当医が探針を取った。
「あ……っ」
 探針で奥歯を引っ掻かれ、一晴くんの足がぴくんと跳ねる。
「は……あぁん」
「虫歯だね。新しい歯なのにこんなに大きくしちゃったのか……」
「っ、ごめんなさい……」
 一晴くんの泣きそうな声を聞いて心の中は穏やかではなかった。そんな言い方しなくてもいいだろと思ったけれど、口には出せなかった。
「他の歯も診るからもっと開けて」
 ミラーと探針を使いながら担当医は検診を続けていく。探針で引っ掻かれると一晴くんは時々小さく声をあげた。
 検診が終わると、一晴くんのお母さんが呼ばれて説明が行われた。
「虫歯が全部で3本あります。どれも治療が必要ですが、左下の奥歯が一番進んでいるので今日はそこの治療をしましょう。よろしいですか」
 お母さんの表情が曇る。一晴くんの顔を覗き込み、「一晴、いい?」と訊いているのが聞こえた。はい、とほとんど泣いているような一晴くんの声も。
 お母さんが担当医に頭を下げる。
「お願いします」
「では、待合室でお待ちください」
 お母さんが診療室を出ていくと、担当医や衛生士さんが治療に使う器具を出し始めたので俺も手伝う。その傍ら、倒されたままの診療台のほうを窺うと、一晴くんは俺たちの様子を不安げに目で追っていた。
(怖いよな……)
 どうにかして安心させてあげたかったけれど、かける言葉が見つからない。「大丈夫だよ」と俺が勝手に決めつけるのもよくない気がしたし、「頑張れ」も既に頑張っている一晴くんに言うのは違う気がした。
「始めましょうか」
 そうこうしているうちに準備は終わってしまい、担当医がライトをつける。
「開けて」
 担当医が金属製の注射器を持ち、プランジャーを押していく。一晴くんはつま先が少し動いたものの、声をあげることはなかった。
 何本か麻酔が打たれ、効くのを待った後にタービンでの切削が始まった。
「一晴くん、大きく開けようねー」
 衛生士さんが一晴くんの口に入れたバキュームをくいっと引く。恐怖心からか一晴くんは上手く口を開けられていないようだった。
 しばらくすると痛みが出てきたのか、タービンの甲高い音とバキュームの音に交じって一晴くんのぐずるような声が聞こえ始めた。しかし休憩を挟むことなく治療は続いていく。やっと音が止まったと思ってもバーの交換で、すぐに治療は再開された。
 一晴くんは足をもぞもぞと動かしたり手を組んだり離したりして痛みに耐えている様子だった。
「お口閉じないよー」
「あ……!」
 大きな声があがり、体が跳ねる。俺まで体に少し力が入ってしまった。
(麻酔足すとかできないのかな……? せめて休憩だけでも……)
 そう頼みたかったけれど、歯科医師それぞれのやり方があるのはわかっているし、ましてや入りたての助手の立場で口を挟むことなんてできない。
 しばらくして機械音が止まり、タービンやバキュームが一晴くんの口から抜かれる。ほっとしたしたのも束の間、担当医がブラケットテーブルから銀色の器具を取ったのが見えた。ハサミの先端にシリコンがついたような器具。
(え……)
「開けて」
 担当医は小さく開かれた一晴くんの口にその開口器を噛ませた。
「っ!? や……」
 口元へ伸びそうになった一晴くんの手を衛生士さんが押さえる。
「お口開けないならこうするしかないでしょう」
 担当医はそう言いながらカチカチと開口器を調節し、一晴くんは大きく口を開かされた状態になる。喉の奥からひしゃげた声が漏れた。
 こんなに怖がってるのにあんまりじゃないか。それに、さっきまで開口器がなくても頑張っていたのに。そう言いたくなったけれど、大きな音を立て始めた機械が一晴くんの口に入っていくのをただ見ていることしかできなかった。
「やらぁ……っ」
「動かないよー」
「大きな虫歯にしちゃったんだから我慢しないと」
 衛生士さんと担当医に押さえつけられ、一晴くんが泣き出す。
 俺は思わず診療台に近づき、一晴くんの足に手を置いた。
 少しでも安心してほしくて足を撫でることもしたけれど、後で考えればあれも、一晴くんにとっては押さえつけられているような感覚だったかもしれない。

 片付けを済ませた後、次の診療までには少し空き時間があった。まだ一晴くんの泣き声が耳にこびりついている。
 子どもが泣くのは歯科医院では日常茶飯事だということも、抑制が必要な場合があることも、理解しているつもりだった。でも診療を行う側として初めてその場面に居合わせて、ショックを受けている自分に気づいた。
 待合室を覗くと、一晴くんはお母さんの隣で俯いて座っていた。
「一晴くん」
 近づいていって、一晴くんの足元にしゃがむ。
「よく頑張ったね」
 治療中は何もできなかったから、せめてこれくらいは。診療室では俺も含めて誰もかけなかったその言葉を口にすると、一晴くんの目から大粒の涙がこぼれた。無言で首が何度も横に振られる。
 そんな様子を見ながら、お母さんは困ったように笑った。
「ごめんなさいね。歯医者が苦手で、いつもこうなの」
「いつも……?」
 それならもう少し配慮はできなかったのだろうか。そもそも、もしかすると昔からあんなふうに治療を受けてきたから苦手になってしまったのかもしれない。
 会計に呼ばれ歩いていく一晴くんとお母さんを見送る。無力感が心に残った。呼びに来たときから一晴くんは真っ青な顔をしていた。俺がもっと支えになれていたら。
 将来歯科医師になって一晴くんみたいな患者さんに会ったら、俺はうまく安心させてあげられるだろうか。

 このときの気持ちは尾を引き、俺は子どもの診療に対して苦手意識を抱いたまま歯科医師になった。そうならないよう努力はしているけれど患者さんを泣かせてしまうこともあり、自信が持てないままだ。