好き、嫌い - 6/13

 次の朝。私たちは10時頃、陽太の車で歯医者さんに来ていた。準備してくるから待ってて、と言って陽太は私を待合室に残して奥のほうへ行ってしまった。
 まだ薬が効いているのか、右下の歯の痛みはほとんどなかったけれど、気分はずんと重い。待合室の大きな窓から見える外は良いお天気。本当なら、今日は歯医者さんじゃなくて買い物に行く予定だったのに。陽太は終わってから行こうねと言ってくれていたけど、歯医者さんを終わらせるというのがすごく高いハードルに思えて、終わってからのことなんて考えられない。
 しばらくして、こちらに近づいてくる足音が聞こえた。

「ふみ、お待たせ」

 深い緑色のスクラブを着た陽太。

「どうかな、この格好。似合う?」

 そう言って笑いながら陽太が私の隣に腰掛ける。もちろんすごくかっこよかったけど、今は歯医者さんへの恐怖心のほうが強くて彼の姿をじっくり眺める余裕はない。
 私が俯いていると、下から顔を覗き込まれた。

「あ、かっこよすぎて恥ずかしくなっちゃった?」
「な、なに言ってんの……」

 あんまり陽太らしくない冗談に小さく笑いながらちょっとだけ彼のほうを向く。

「ま、でもいつもの俺だからさ。照れることないよ」
「だから照れてないって」

 本当は「照れることないよ」じゃなくて、いつもの陽太だから怖くないよって言ってくれているのはすぐにわかった。二人で笑って少し緊張が解けていく。

「よーし、じゃあ早速だけど診察室行ってみよっか。大丈夫そう?」
「う、うん……」
「あれ、元気なくなっちゃったなぁ。手繋いでいこっか、ね? 歯医者さんデートだよ」
「やだよそんなの……」

 また少し笑いながら、陽太に手を引かれて、診察室のほうに歩いていく。先にレントゲンを撮ってから、案内されたのは一番奥の診察室だった。当たり前だけどいつもの歯医者さんと同じ、たくさんの機械に囲まれた椅子。トクトクと脈が速くなっているのを感じながらそこに腰掛けた。

「エプロン着けるからね」

 陽太の腕がふわりと首元に回されて、紙のエプロンが着けられる。

「さて、と」

 陽太が斜め後ろに座ったのがわかって、私は振り返った。パチンパチンと音を立てて手袋をはめている様子はすごく歯医者さんらしくて、早くも泣きそうになってしまう。そんな私に陽太はいつも通りのふんわりとした笑顔で笑いかけてくれた。

「改めて、ふみ、今日はよろしくね。緊張してるなー」
「ん……すごく……」
「ここ来るとそうだよね。一回深呼吸してみようか。ほら、俺と一緒に」

 吸ってー、吐いて、と陽太の声に合わせて大きく息をする。完璧にとはいかないけど少し肩の力が抜けた気がした。

「ん、じゃあちょっと診てみようかな。椅子、倒していい?」

 陽太の問いかけに頷いて答えると、椅子の背もたれが倒れ始めた。
 椅子が完全に倒されて仰向けになると、ぎゅっと体に力が入る。口元がライトで照らされて、マスクをつけた陽太に見下ろされると、ますます緊張してきた私はもう一回大きく深呼吸した。
 
「まずは診るだけね。この鏡を使うよ?」

 陽太が手に持った銀色のミラーを見せてくる。いつもこんなふうに患者さんに説明してるのかな。それとも私が怖がってるからかな。どちらかはわからないまま、私はこくんと頷いた。

「怖くないからね、あーん」

 大丈夫、今朝陽太の前で口を開けたのとおんなじ。自分に言い聞かせながら小さく口を開く。
 ミラーが口の中に入ってきて、頬の内側にひんやりと冷たさを感じる。私はそっと目を閉じた。

「ここの右下の一番奥ね、ここを今日は治そうね」

 他の所も見ていくからねー、と陽太がミラーを動かしていく。どこだったかな、もう一箇所虫歯だって言われてたの。たしか、右上……?

「ここかな、この前治療したの。頑張ったねえ」

 陽太がそう言ったのは左下の奥から2番目の歯。たしかに一番最近治療した歯だった。やっぱり歯医者さんはわかるものなんだ、すごいなと思いつつ、今さらながら陽太に治療痕も見られているのが恥ずかしくなってくる。恐怖心に気を取られて忘れていたけど、何箇所も治療している歯を見せて嫌われないかなと別の不安が湧いてきた。

「上の歯いくねー……ん……」

 陽太が突然手を止める。カチャ、と何か器具を取る音がして私はうっすらと目を開けた。

「少し触るね。響いたらごめんね」

 痛いの? 慌てて目を閉じ直して、身構える。

「……ん!」

 左上の一番奥とその手前の歯の間がカリッと引っかかれた瞬間、小さな痛みを感じた。目を開けると陽太はまだ左上をじっと見ている。

「そうだなぁ、ちょっと間から虫歯さんになっちゃってるかな」
「ふぇ……」
「ん、でもここはすぐ治りそうかな。そこまでひどくないよ」

 陽太がフォローするように言ってくれたけど、思ってもみなかった虫歯が見つかったのと少しだけど痛みを感じてしまったのとで鼻の奥がツンとし始めた。

「あと半分だからね、もう少しだけお口開けててね」

 そっと指で私の口の端を引っ張りながら陽太が右上へミラーを動かす。そうだ、やっぱり右上だ、この前歯医者さんで言われたの……。見逃してくれないかな、なんて思っていたけど陽太がそんなことするはずはなかった。

「うーん……ごめん、もう1回触るね」
「や、やだっ」

 さっきの痛みを思い出して私は顔を背けようとしたけど、陽太の手で顎を支えられていて、動かせなかった。

「ごめんね、すこーしだけ我慢だよ」
「あ、んぅっ」

 今度は右上の一番奥の歯、その溝のあたりが引っかかれて痛みが走る。私が声をあげてしまうと「痛かったね、ごめんね」と陽太の手はすぐ離れていった。

「ここもね、治したほうがいいかな。できれば早めに」
「……ひどいの?」
「そうだね……軽くは、ないかな……お口閉じていいよ。お疲れ様」

 ライトが消えて、椅子が起こされる。
 虫歯、1本増えてた。しかも検診だけで痛かった……。

「うがいしてね、ふみ」

 この後の治療が思いやられて、ますます重たい気分で私は口をゆすいだ。