好き、嫌い - 13/13

*おまけ
(6ページと7ページの間)

 目の前ですやすやと寝息を立てている恋人の頬に触れ、まだ乾ききっていない涙の痕をそっと拭う。
 一度は今日の治療を承諾してくれたものの、ベッドに入ってもうひと眠りしようとすると、やっぱり俺に治療されるのが怖いとふみは泣き出してしまった。でも、ふみが怖いと思っているならなおさら、俺がなんとかしたい。自分の我儘だという自覚はあったけれど、譲れなかった。
 ふみを宥めて、なんとか寝付いてくれたのがつい先程。寝不足の状態で治療を受けてもらうのは心身ともに心配だからほっとしたけれど、今度は俺が眠れなくなってしまった。
 俺にちゃんと治療できるのかなんて、今さらそんな不安が頭をもたげてくる。
 ちゃんと、というのは技術面での不安というよりは歯医者に対する恐怖心の強いふみをどう安心させてあげられるか、という面が大きい。そしてそれは俺が日頃から課題だと感じている部分でもあった。
 
 俺は虫歯になったことがない。当然治療で怖い思いをしたこともない。だから、歯医者が怖いという患者さんに会ったとき、その気持ちを完璧に理解することはたぶん、できない。
 経験があれば自分が恐怖を覚えたときに歯科医にどうしてほしいのかわかりそうなものだけど、わからないから想像だけで今までやってきた。もちろん患者さんの要望も聞きつつ、なるべくそれに沿えるように心がけてはいるけれど、患者さんが遠慮なく全てを話してくれるかというとどうしても限界があるような気がする。
 ふみもそうだ。現にふみがここまで歯医者が怖いというのを俺は今日まで知らなかった。歯医者が怖くて、それで虫歯を進行させてしまったなんて、そばにいながら何も気づかなくて申し訳ない気持ちでいっぱいだ。この調子じゃ、治療を始めても自分の気持ちを押し込めて無理をさせてしまうのは想像に難くない。
 
 今まで会った患者さんたちの中でも特に歯医者に対する苦手意識が強そうなふみの治療をどう進めたらいいんだろう。誰かの意見を聞きたい。ふみ以外で、歯医者が怖いという経験をしたことのある人物。それも、なるべくこの話題について包み隠さず話してくれる相手がいい。
 仲の良い同僚が実は患者側になるのが苦手というのは知っていた。彼が嫌な思いをするんじゃないかと今までなんとなく避けてきた話題だったけれど、今すぐに助けを求められそうなのが彼くらいしか思いあたらなかった。
 
 携帯に表示された時刻は午前5時半。体を動かすのが好きな彼は毎日5時に起きて近所を走っているらしいから、たぶん今日も起きているはずだ。とりあえず『おはよう』とメッセージを送ってみる。
 走ってる途中だったら携帯見ないよなあ、と動かない画面を見つめてぼんやり待っていると、しばらくして小さな振動とともに返信が届いた。
『おはよう。どうした?こんな時間に』
 それはびっくりするよね、突然朝早くにこんなの送ったら。
 どこから説明しよう。ふみに内緒で相談してごめんね、と心の中で謝り、俺は今回のいきさつを文字にしていった。
 彼は快く相談に乗ってくれた。自分はこういう気持ちだったとか、こうしたら怖さが軽減すると思うとか、俺の質問に対して丁寧に綴られた文章が返ってきた。
『ありがとう。なんかできそうな気がしてきた』
 何回かやりとりをした後。そう送るとまたすぐに返信は来た。
『風見はうちで一番優しい先生なんだからいつも通りやれば大丈夫だよ』
 ふふ、と思わず笑みがこぼれる。彼からその台詞を聞いたのは初めてじゃなかった。
「一番優しいって、夏くんが勝手に言ってるだけだけどね」
 患者さんの気持ちがわかっていないかもという不安が消えることはないけれど、そう言ってもらえると少しは自信になる。
 もう一度『ありがとう』と送って携帯を枕元に置いた。
「……ふみ、俺も頑張るからね」
 さらさらとした髪に指を滑らせて背中に手を回し、俺は目を閉じた。