歯磨き

「うん、虫歯はないな。うがいして」

 検診が終わって、椅子が起き上がる。ほっとしながら口をゆすいで、背もたれに寄りかかった。

「じゃあ後は歯磨きの練習とクリーニングな。ちょっと待ってて」

 夏兄が診察室を出ていく。たぶん衛生士さんを呼びに行ったんだと思う。
 暇だなあ、とぼんやりしながら待つこと数分。後ろから足音が聞こえてきて、衛生士の倉木さんかな、と思って振り返るとそこにいたのはさっき出て行ったばかりの夏兄だった。手には何か器具の載ったトレイを持っている。

「え?」
「え?」
「いや、え? じゃないし。なんでいんの」
「うわっ、傷つく言い方するよなー」

 そう言いながら夏兄は座って機械をいじり始める。なんだか嫌な予感がする。準備してるだけ、だよな?
 じっと横を見ていると、それに気づいた夏兄がおれを見て笑った。

「今、衛生士さん手が空いてなくてさ。たまには俺がするわ」
「はあ!?」
「なんだよ、そんなに嫌そうな顔すんなよ」
「いや、普通に嫌なんだけど!」

 クリーニングはまだいい。だけど、歯磨きが、すごく嫌だ。正直衛生士さんに歯磨き指導されるのも結構恥ずかしいのに、この歳になって夏兄に歯磨きされるなんてありえない。しかも夏兄めちゃくちゃうるさそうだし……。ここが磨けてないとか、汚れが溜まってるとか言われるの? 夏兄に? 絶対無理。

「も、もう帰る」
「そんなに嫌か? もしかして俺が歯磨き下手そうとか思ってる?」
「そうじゃな……んん……そう、かも」
「どっちだよ」

 夏兄が歯磨き下手そうとは思ってなかったけど、よく考えてみたらありうる。だって体が大きくて力も強いし、ガシガシ磨いてそうな気がしなくもない。

「下手そう」
「おーわかった。じゃあ下手かどうか理玖が確かめてくれ」
「ちょ、ちょっと待って!」

 夏兄が椅子を倒そうとしたのを慌てて止める。
 
「ほんとは、そうじゃなくて……その、恥ずかしいじゃん……」

 待ってほしい一心でもごもごと本音を言うと、夏兄は「なんだ」と拍子抜けしたみたいだった。

「別にいつもと一緒だろ? 治療だってしてきたのに、なんで今さら恥ずかしがるんだよ」
「だって、歯磨きは治療と違うし……」
「そうか? 痛くもないし、治療よりかずっといいと思うけど」
「じゃあ、考えてみてよ! 夏兄に兄貴がいたとして、今その人に歯磨きされるの! 嫌じゃない?」

 夏兄が考え込む。しばらくして、神妙な顔で夏兄は頷いた。

「それは嫌だな」
「だろ? 衛生士さんに歯磨きされるのはなんかほら、衛生士さんも仕事だしまだ許せるって思わない?」
「まあ、たしかに。仕方ない感じはする」
「わかった?」
「……だいたいは。ただ俺も仕事なんだけど」

 あれ? なんかおれ、変なこと言ってる? ていうか、さっきの例え間違ったかも。聞きようによってはいろいろと恥ずかしい例えだったような。

「考えすぎじゃねえか? 別に家で膝枕して理玖に仕上げ磨きしてやるって言ってるわけじゃないんだし」
「あ、ちょっと待ってさっきのなし」

 やっぱりあの例えはマズった……!

「つうか兄貴って……そういうふうに思ってくれてるのな」

 ばか、嬉しそうな顔すんなよ夏兄! 否定できなくなるだろ!

「ま、歯磨きは普通に仕事としてやるから安心しろよ。それとも今度うちに泊まりに来て一緒に練習するか?」
「は、はあ!? 何言ってんの」
「嫌だろ? じゃあ今やろうな」

 おれの反応まで想定のうちだったんだろう、夏兄が笑いながら椅子を倒す。

「ちょっと待ってって……!」
「はいはい、倒したら待つから。とりあえず椅子倒しとかないと逃げそうだからな」

 倒れていく椅子の上で膨れっ面をするくらいの抵抗しかできなかった。

「始めていいときは教えて」
「別に、もういいし」

 膨れっ面のままそう言うと、夏兄は苦笑しながライトを点ける。

「じゃあ、歯磨きからするからな?」

 いきなりか……いつもと同じ順番だけど。夏兄のほうを見るとピンセットでつまんだ綿に赤い液体を含ませているところだった。これが一番嫌い。磨き残しが赤く染まるやつ。

「最初にこれ塗って、磨き残しを見ような」

 口開けて、と言われて、口の中全体に赤い薬が塗られていった。
 一度うがいをして、またすぐに仰向けになる。

「じゃあ見せてな。あーん」

 唇に指が引っかけられて、夏兄の視線がじっとおれの口の中に注がれる。歯磨きはあんまりうまくできてない自覚がある。やっぱり恥ずかしすぎる……。

「こら、口閉じんな」
「だって」
「あのな、俺が染め出しするのは初めてでも毎回お前の口の中見てればだいたいどこが磨けてないとか、わかってるから。今さら歯磨き下手だなとか思ってねえよ」
「思ってるじゃん!」
「いや、むしろ上手くなったなって感じだけど」

 さらりと褒められて、おれは途端に勢いをなくしてしまった。

「……ほんとに?」
「ほんとに。だから口開けて。俺に仕事させてくれ」

 しぶしぶ小さく口を開けると下顎をそっと押される。
 再び降ってくる夏兄の視線から逃げるように目を逸らして、どこを見たらいいのかわからなくなったおれは目を閉じた。

「次、いーってして……」

 しばらくしてようやく、夏兄の手が口元から離れていっておれは目を開けた。

「理玖も一緒に見ようか」

 手鏡を渡され、もう一度口を開く。うわ、今回も赤い所たくさん残ってるじゃん……。
 と、恥ずかしさでいっぱいだったところにミラーが入り込んできて、少し緊張もしてしまう。

「左はな、結構上手くなってると思うんだよ。下の虫歯になりかけだったところもよくなったし。歯と歯の間はもうちょっと気をつけてな」

 ミラーにおれの歯を映しながら夏兄が説明してくれる。うん、と頷くと夏兄は指とミラーをおれの口の右側へ滑らせた。

「問題は右だな。結構磨き残しがあるんだよ、このあたり」

 指されたのは、右下の一番奥から三番目くらいまでの歯。

「左と同じで歯と歯の間とか、あと裏側も……汚れが残ってるの、わかるか?」
「ん」
「前に治療した所みたいにならないように気をつけような」

 前に治療した所。一番奥とその手前の歯の間からできた虫歯は夏兄に最初に治療してもらった所で、2本とも銀歯が入っている。

「そっちも心配なんだよな。特に一番奥とか、磨き残し多いし……このままだとまた虫歯になりそうだぞ」
「う……わーってる」

 だって、いつも衛生士さんからも言われてるし。

「わかってる、って……じゃあちゃんとしてくれよ? ここ次虫歯になったらやばいからな」
「やあいって」
「治療がすごく痛い」
「え!」
「俺もその治療したくないからな。気をつけろよ」

 いつになく重い口調で夏兄が言ってくるからおれは何度も頷いた。
 その後もどこが磨けてないかみっちり指摘されて、歯磨きをする頃にはもう疲れてしまっていた。おもに精神的に。これで上手くなったとか、最初の頃のおれはどんだけ歯磨きが下手だったんだろう。

「ちゃんと鏡持てよ理玖」
「……」
「こっからが肝心だろうが」

 夏兄に促されて口を開けると、歯ブラシが右下の奥歯に当てられる。

「こうやって小さく動かして……あんまり力は入れすぎないように」

 うわ、夏兄に歯磨きされてるって思ったらやっぱりだめだ……。仕事だから。ただの歯医者さんだから。そう自分に言い聞かせないとやってられない。けど、夏兄も歯医者さんなだけあって歯磨きが上手かった。言葉の通り優しく歯を磨かれて、最初に下手そうなんて思ってしまったのが申し訳なくなる。
 でも思い返してみたらいつもだった。治療中におれが泣いたり動いたりしたときだって手つきはすごく優しくて、力ずくでされた記憶はない。だからなんとか最後まで治療受けられたんだけど。あ、まずい。思い出したら余計に恥ずかしくなってきた。

「だから口閉じんなって……裏側は歯ブラシの角度をちょっと変えて、斜めに入れる感じでな。理玖もやってみようか」

 歯ブラシを渡されて、鏡を見ながら言われた通りにやってみる。さっきのお手本を真似していつもより丁寧に磨くと「お、上手いな」と夏兄は褒めてくれた。

「あと、いつも鏡見ながらやってるか? できればいつも見たほうがいいぞ」
「……ん」

 場所ごとに夏兄にコツを教えてもらいながら磨いて、色の付いていた歯がだんだん綺麗になっていく。全体を磨き終わる頃には随分時間が経っていた。
 椅子が起こされて、うがいをする。

「お疲れ。後はクリーニングして――」
「芳野先生、よかったら代わります」

 夏兄の言葉の途中で後ろから女の人の声が聞こえて、振り向くと衛生士の倉木さんが診察室に入って来るところだった。

「あ、いいんですか? じゃあ、クリーニングはお願いします。準備は一応してあるので」
「わかりました」

 夏兄が手袋を外しながら椅子から立ち上がり、倉木さんと場所を変わる。

「じゃあまたな、理玖。あ、あとそうだ、ほんとに泊まりに来いよ、今度」
「ぜっったい行かない」
「……お前、また変なこと考えてるだろ?」
「どっちが」

 今日の流れで泊まりに来いとか言われたら歯磨きの練習をするためかと思ってしまう。若干引きながら言い返すと夏兄が呆れ顔になった。

「理玖んちのおじさんとおばさんが今度二人で旅行するんだろ? 『夏己くんが理玖を見ててくれたら助かるわ〜』っておばさんに言われてさ。それだけだよ」

 まともな理由だった。けど母さんも夏兄もおれを何歳だと思ってるんだ?

「別に一人で留守番くらいできるし」
「無理にとは言わないけど。まあ来てくれたら食事くらい出すから、いつでも来いよ」

 それだけ言うと、じゃあな、と夏兄はあっさり診察室を出て行った。
 そっか、食事。おれ、全然料理できないからそれは魅力的かも……。ちょっと心が動きかけていると、隣でふふ、と倉木さんの笑い声が聞こえた。

「芳野先生すごく来てほしそうだったね」
「え、そうですか?」
「うん、そう見えたよ」
「過保護なんですよね……」

 気にかけてくれてるのは嬉しいけど、いつまでも子ども扱いなんだよな、とちょっと悔しい。

「だって大事な水元くんのことだもん。検診もね、毎回ちゃんと来てくれるかなって先生そわそわしちゃって」
「そういうとこですよ」

 検診については前科があるからおれが悪いけど。だからといって衛生士さんにまでばれるほどおれのことを気にするのはやめてほしい。

「検診はちゃんと来てね」
「あ、はい……すみません」
「お泊まりも行ってあげたら?」
「そ、それは考えときます」

 倉木さんはまた小さく笑って、そろそろ始めるね、と椅子を倒していく。
 夏兄の家か。食事のこともだけど、一人で家にいるより楽しそうでいいかも。こういうところがやっぱり子どもなのかな、と思いながらもおれの心は泊まりに行くほうに傾いていった。