歯磨き - 1/2

 診療時間後の歯科医院。俺は同僚の早瀬の検診をした後、磨き残しの確認のため染め出しをしたところだった。
 全体的によく磨けているが、上顎は少し歯並びが悪いせいもあり、歯列が乱れている箇所がところどころ赤く染まっていた。

「上が少し磨き残しが目立つな。……こことか」

 早瀬に手鏡を持たせ、唇を捲って特に気になった右上4番と5番の隣接面を指すと、早瀬が少し手鏡をずらしたのがわかった。
 
「おい、見てるのか」

 早瀬の口元から手を離す。

「歯はちゃんと見てる」

 歯は? なんだか引っかかる言い方に軽く首を傾げると、早瀬は嫌そうな顔で続けた。

「唇捲られてるときの顔って不細工じゃん。見たくないなって思って口元以外見えないようにしただけ」
「こんなときに何を気にしてるんだ……」
「気にならない? 柊崎に見られてんのも嫌なんだけど」
「考えすぎだろ。そもそもお前の顔なんか見てないから安心しろ」
「え、見てないの?」

 非常に驚いた顔をされて俺のほうが驚いた。いちいち患者の顔のことなんて気にしているわけがない。視線はほぼ口内にしか向けていないし、だいたい歯医者で晒す顔なんて誰でも不細工だろう。それにそんなことを言っていたら治療を受けているときの俺はどうなる……まさか早瀬、俺の顔を見て内心笑ったりしていないだろうな。

「患者さんの顔は見といたほうがいいと思うよ。痛そうだなとか、何思ってるか気づきやすいし」
「そういうことか。それなら、俺だって――」

 口が滑りそうになり、慌てて言葉を止めた。

「俺だって?」
「……そういう意味なら、俺も患者の顔は見てる」

 ほんとにー? と早瀬がにやにやと笑う。
 治療のときには絶対にしない、だいぶリラックスした笑い方だと思った。

 彼からはっきりと「歯医者が大嫌い」と聞いたのは恐らく高校時代のあの一回きりだ。笑いながら「痛いのが嫌い」「優しくしてね」とはよく言ってくるが、どれもどこまで本音か分からない調子だった。
 でも、定期的に彼の検診をするようになってから分かってきたことがある。笑いながら早瀬が言うそれらの台詞は、恐らく切実な本音なのだ。
 今日もそうだった。検診が終わるまでは、いつも通り冗談を言いながらも緊張が滲み出ていて、口を開けるのにも力が入っていた。それが虫歯はないと伝えた途端、気の抜けたような表情に変わったから俺も素直によかったなと思ったものだ。言葉にはしなかったが。

「まあどうしても気になるっていうなら今度からタオルでも置くようにしてもいいが」
「うーん……それはいいや」

 手鏡を弄びながら早瀬が遠くを見るような目をする。

「タオル置いてると柊崎の顔見えないしね」
「何言ってるんだ、お前の治療をするときの話をしてるんだぞ」
「だから、そうだよ」

 言われている意味が分からない俺に向かって早瀬が微笑んだ。

「痛いなーって目開けたときに柊崎がいつもの真顔で治療してるとさ、あー柊崎だーって思うじゃん」

 安心する、とか言われるのかと思った。そしてそれを想像した一瞬、あまり悪い気持ちはしなかった。変な想像をしてしまった自分が恥ずかしい。

「あー柊崎だーって、どういう感情だそれは」
「え? なんだろう、現実逃避? 表情筋今日も仕事してないなって思ったら気が紛れるっていうか」
「今度絶対タオル置いてやるからな」
「冗談だって」

 じゃあ何が本音なんだろうかと少し面白くない。友人、同僚、患者と主治医。早瀬と俺との関係を表す単語は色々あるが、彼自身がどんな人物かというのはまだまだ掴めないところが多い。もっと知りたい、いろんな顔を見たいと思ってしまう。

「……とにかくだな。この4番と5番」

 なんとなくさっきより控えめに唇を引っ張り、問題の箇所を指差す。早瀬が手鏡を確認し、うーん、と唸った。

「そこ自分でも歯並び気になっててさ。気をつけてるつもりなんだけど」
「にしてはあまり磨けてないな」
「だよねえ」

 早瀬が言い訳で「気をつけてる」と言っているとは考えにくい。何か原因があるのだろうかと改めて早瀬の口内に視線を落とした俺はふと、その部分の歯肉だけ少し傷んでいることに気づいた。

「早瀬、ちょっといつも通りそこを磨いてみろ」

 準備してあった歯ブラシを早瀬に渡す。首を傾げながらそれを受け取った早瀬は鏡を見ながら右上4番と5番のあたりを磨き始めた。しばらくして、「あ」と声をあげて早瀬は手を止めた。

「力入れすぎてるね、俺」
「そうだ。そのせいで毛先が開いて歯に当たってない部分がある」
「そっか、気をつけて磨かなきゃって思いすぎてたのかも。どこが問題か探しながら見たら一発だったけど、今まで気づかなかったな」

 悔しそうに言って早瀬はもう一度歯を磨き始める。さっきより軽いタッチで何回か歯ブラシを動かすと、すぐに色は落ちていった。

「どう? いいんじゃない」
「ああ」

 こちらを見上げてくる早瀬に頷いて、歯ブラシを回収する。
 
「このあたりはワンタフトを使うのもいいかもな」
「たしかに。サンプルが余ってたよね? もらって帰ろ」
「それがいいな。……あと気になったのは右上の6番だな」

 7番にFMC、6番の遠心面から咬合面にかけて小さめのインレーが入っているそこをミラーに映す。高校時代に入れたというインレーはだいぶ年季が入っており、歯質との間にはわずかな段差があるものの、二次カリになっていないことを確認して経過観察をしている箇所だ。こういう場合、歯とインレーの境目に歯垢が残りやすそうなものだが、逆の近心面に赤く染まった部分があった。

「ここ、インレーが入ってる部分に気を取られすぎてるんじゃないか? 二次カリが心配なのは分かるがこっちも忘れないようにな」
「はぁい」

 気のなさそうな返事。そんな返事のわりには真剣な顔で手鏡にじっと視線を向けて少しずつ角度を変えながら見ているのが彼らしいといったところか。

「自分でも見るか?」

 ミラーの持ち手のほうを差し出したが、早瀬は首を横に振った。

「今ので見えたから大丈夫。あとは? 気になるところ」
「それくらいだな。お前はどうも気をつけているのが裏目に出ている気がするから、歯並びとかインレーとか、気にしすぎも禁物だ」
「んー……だってねえ。虫歯なりたくないし」

 やはりこいつの心の底にある恐れは相当根深いのだろうなと、ふっと下を向いた横顔を見てまた思う。

「今は俺も定期的に診ているんだし、そう酷いことにはならないだろ」
「へ〜? 頼もしいじゃん」

 一瞬見せた物憂げな様子はどこへやら、軽口を叩きながら俺を見上げてきた早瀬。揶揄うような口調とは裏腹に嬉しそうな表情をしていると思ってしまったのはさすがに虫が良すぎるだろうか。

「早瀬が今まで通りしっかりケアするのが前提だからな。大方よく磨けているんだ、これからも続けるように」
「りょーかい」

 さて、あとは全体的に磨いて終わりにするかと俺は再び歯ブラシを手に取る。と、下のほうからけらけらと笑う声が聞こえてきた。

「柊崎先生が歯磨きするの超不安」
「うるさい、口開けろ」
「だって自分の歯もちゃんと磨けないのに……んむっ」

 まだ話している途中から唇に触れて押し下げると、早瀬は意外にもそのまま口を大きく開けた。

「他人のはちゃんとするから安心しろ」
 
 自分の歯もそうしろと言わんばかりにじっとりした目で見られてしまった。
 俺だって理屈は知っている、その気になれば早瀬と同じくらいは磨けるはずだ。以前は痛む歯が多すぎてまともに磨けない部分が多かったが、早瀬が治療してくれたおかげでそれも解消されつつある。

「自分のも最近はましに磨けてるはずだ」

 ほんとに? と早瀬が笑いながら目を閉じた。
 まあ相変わらず忙しかったり寝落ちたりで歯磨きがなおざりになることはあるのでそれはまたいずれ早瀬からきっちり指摘されるとは思う。気が重い。
 そういえばなんでこいつはされるがままになっているんだろうな。「自分の歯もちゃんと磨けない」歯科医から歯を磨かれている早瀬を見て不思議になる。超不安とか言いつつ本気ではないだろう。自分で磨くとは言い出さないのがその証拠だ。
 信頼、されているのだろうか。今までの俺のどこに信頼に足る要素があったのかは謎だが……。
 そんなことを考えていると、突然早瀬がぱっちりと目を開けた。

「ひゃんほみはいへ」
「そのまま喋るな」

 歯ブラシを一旦口の外に出すと早瀬が不服そうに訴えた。

「ちゃんと磨いて」
「磨いてただろ」
「嘘だー。さっきは自分が診てるから大丈夫的なこと言っといて、実は俺が虫歯になればいいとか思ってる?」
「そんなわけあるか」

 思わず強い口調で言い返してしまい、早瀬が目を丸くした。
 こいつのいろんな顔を見たい、とは思う。でも治療前の緊張した表情や、痛みや恐怖に耐えている表情を見るのはごめんだ。

「お前がこれ以上虫歯にならないようにできることはしたいと思ってる。本当だ。……一応、だめな歯医者なりに真剣なんだ、俺も」

 早瀬のことだ、こんな柄でもないことを言えば悪い物でも食べたのかと笑うかもしれないが、たまにはいいだろう。そう思っていたのに、早瀬の口から独り言のようにするりと零れ出たのは意外な言葉だった。

「だめだと思ってたらもうとっくに診てもらうのやめてるけどね」
「え?」
「だめな歯医者さんに診てもらいたいわけないでしょ。だめじゃなくて大迷惑な歯医者さんなら俺の主治医のことだけど」
「……褒めてないだろ」
「褒めてないよ?」

 また、掴めない。フォローされたのか貶されたのかよく分からず俺は黙り込む。

「真剣にやるのは当たり前でしょ。はい、歯磨きやり直し」
「……どっちが歯医者か分からん」
「ふは。今は柊崎が歯医者さんだよ。で、俺の歯磨きが終わったら次は俺が歯医者さんね」
「は? 聞いてない」
「どうしよっか。どこか軽く治療して、柊崎も歯磨きの練習する?」

 治療? 歯磨きの練習? 今日は早瀬の検診だけの予定だったのに。
 昼、ちゃんと歯磨きしたか……? 慌てて思い返すが自信がない。
 “いずれ”歯磨きの甘さを早瀬に指摘されるだろうと思っていたが、いずれはこの後すぐになってしまったようだった。