「西矢くん」
どれくらいの時間が経ったのか、気づけば顔の前でひらひらと手が振られていた。
「ごめんね、お待たせ」
待ち合わせの相手、早瀬が軽く両手を合わせる。
「いえ、さっき着いたばっかりです」
「ごめんねほんと。西矢くんと約束した後で後輩に検診頼まれてさ……てか具合悪かったりする?」
「大丈夫です」
即答しても、早瀬は納得がいかないようで西矢の顔をじっと見ていた。
「あの、本当に具合は悪くないです」
「そう? じゃあごはん食べに行こっか。がっつり系とあっさり系どっちがいい?」
「……あっさり系です」
普段の西矢はどちらかといえば食欲旺盛な自覚がある。また体調不良を疑われそうだと思ったが、早瀬は「あれ珍しい」と言っただけだった。
駅から10分ほど歩き、大通りから一本裏手に入る。
「着いた。ここだよ」
早瀬が指したのは、民家と並んでひっそり佇む2階建の店だった。暗くなってきた空の下、すりガラスがはめられたドアの向こうに暖かい色の光が灯っている。
「どーぞ」
早瀬がドアを開けてくれたので、すみません、と言いながら中に入る。
外観から落ち着いた店を想像していた西矢だが、店内は思ったよりも賑やかだ。1階のカウンター席は全て埋まっており、西矢と早瀬は2階のテーブル席に通された。先に飲み物を頼んでから、二人でメニューを見る。
「適当に頼んじゃっていい? 何か気分じゃないものとかある?」
早瀬とこういう店に来ると大抵、おすすめのものを注文してもらうことが多かった。もとから好き嫌いはほとんどないし、今日もあまり食欲はないが、食べたくない特定のものがあるわけでもない。
「なんでも大丈夫です。量はそんなに食べられないかもしれませんが」
「りょーかい」
しばらくして、飲み物とお通しを運んできた店員に早瀬が注文していく。刺身、ポテトサラダ、鴨ハム、南蛮漬け、それからこの店で特におすすめというおでん。あっさり系がいいと言った西矢に合わせたようなメニューだ。
「じゃ、いただきますか」
店員が去っていくと、二人は生ビールで乾杯した。
「急に連絡してしまってすみません」
「全然いいよ。実はさ、ごはん食べに行く約束してた同僚が急に行けなくなって。だから西矢くんが声かけてくれて嬉しかったよ」
「そうだったんですか……。残念でしたね」
思いがけず自分と似た状況にあったことを知り、早瀬の気持ちを想像すると自然にそんな言葉が出る。しかし早瀬は「いいの」と全く気にした様子はなかった。
「前の職場でお世話になった院長先生から突然お呼ばれしたらしくてさ。一緒に働いてた先生と行くんだって。そりゃあそっちが優先でしょ」
「たしかにそれは断れないですね」
「ね。俺とはいつでも行けるしね」
そんなふうに理由がはっきり分かっている早瀬が羨ましかった。
浅賀も「断れなかった」と言っていたが、駅前で浅賀と歩いていた若い男性を思い出す。友人だろうか。恋人という可能性もある。とても楽しそうに見えた。「断らなかった」のではないか、という疑いが顔を出しそうになる。
「西矢くんはなんかあった? ただ俺と飲みたかったわけじゃなさそうじゃん」
浅賀のことを相談したい。早瀬からのいいパスだというのに、どう話せばいいのか西矢の考えはまとまっていなかった。
折りよく料理が運ばれてきたので、ひとまず二人ででそれを取り分ける。
「相談はあったんですが、まとまってなくて」
「いいよ、話してるうちに整理がつくこともあるしさ」
それでも西矢が話し始める気配がないせいか、早瀬も無理に聞き出そうとはしなかった。「この秋刀魚の刺身おいしい」「西矢くんポテサラに玉ねぎ入れる派?」そんな当たり障りのない話をしながら食事を続ける。
やがて、西矢はぽつぽつと話し始めた。
「今日、俺も人と約束してたんです。食事じゃなくて治療なんですが」
「そっか。キャンセルになっちゃった?」
「はい。急用ができたらしくて。……そのとき、一瞬思ったんです。なんで俺との約束を優先してくれないんだろうって。勝手ですよね、しかも俺との約束ってただの治療なのに」
西矢の箸が止まった。一度は蓋をした自分の気持ちを引きずり出す行為は決して楽なものではなかった。
話せば話すほど心の整理がつくどころかかき乱されていくような感覚に陥る。
「俺はその人のために治療してるつもりでした。だけど本当は自分のためだったんじゃないかって、気づいてしまって」
自分は一体何を話したいのだろう。相談と言いながらこんな内面の暗い部分の話をされて早瀬も戸惑っているのではないか。前の席に座っている早瀬の様子を窺ったが、彼は聞いてるよと言うように真剣な顔で頷いた。
それに安心した西矢は少しずつ自分の気持ちを言葉にしていった。
「俺はその人に心を開いてもらえないのが悩みでした。心を開いてもらって、辛いことは共有して、少しでも楽に、通院を続けて……元気になってほしくて」
浅賀の無理をしているような笑顔が西矢の脳裏に蘇る。
言葉は次第に途切れ途切れになり、西矢の頰を涙が伝った。その様子に早瀬が目を見開いたのにも気づかず、西矢は続ける。
「だけど、こんな自分本位な俺じゃ心は開いてもらえないかもしれない」
「……西矢くん」
すみません、そう言って西矢は指で涙を拭う。
「どうすればいいのか分からないんです。その人のことも、自分のことも」
それきり、西矢の言葉は途切れた。
早瀬も考え込むような様子を見せる。二人で食事をしたことは何度もあるが、これほど重苦しい雰囲気になるのは初めてだった。
しばらくして、早瀬が口を開く。
「答えにはならないけどね。今の話聞いて、俺は西矢くんが何か間違ってるとは思わなかったよ」
西矢は何度も首を横に振った。
「俺はただその人を助けたいんじゃなくて、自分が助けたいって思ってるんです。ありがとうって、他の誰かじゃなくて俺に笑ってほしいって……」
「それ、そんなにいけないことかな?」
「え……?」
「俺は自然な気持ちだと思う。好きな人を幸せにしたいってことでしょ?」
西矢は少し考えてからゆっくり頷いた。
あんなに悩んでいたのに、言い換えられると単純なことに思えてくる。好きな人を幸せにしたい。たしかにそれが間違っているとは思わない。
「この感情を否定しなくてもいいんですか」
「当然。西矢くんの想いは大事にしていいんだよ」
「……でも、俺の想いはきっと相手のためにはなりません」
「そう決めつけるのも、相手のためにはならないんじゃない? なんせまだ心を開いてくれてないんでしょ。何がその人にとって良いことなのか、本当に分かってる?」
「分かりません。でも、どうすれば」
「西矢くんは、その人に心を開いてる?」
早瀬の唐突な質問に、西矢は即答できなかった。
「全てを伝えるのが相手のためになるとは限らないけど、こっちが腹の内を見せることで心を開いてもらえることもあると思う。それに、悩んでるよりまっすぐ言葉で伝えるのが西矢くんには向いてる気がするよ」
はっと思い出す。早瀬は以前も西矢に同じようなアドバイスをした。「西矢くんの気持ちを伝えたことはあるの? すごく心配してるって」と。
あの後、西矢は浅賀にそれを伝えた。伝えたことが直接影響したのかは分からないが、結果的に浅賀は西矢に治療を委ねてくれた。
「……話してみようと思います。もう一度」
「いいじゃん。好きですってことも言っちゃえば?」
「え、……え?」
「なーんてね。ま、それは西矢くんが決めることだけど。西矢くんの話を聞いてたらその患者さんのことがほんとに大切なんだって伝わってきたから、本人にも伝わったらいいなって、俺が勝手に思っただけ」
浅賀に対する好意がどういった類のものか、西矢にもまだ明確には分からない。ただすぐに思い出したのは、駅前で見かけた浅賀と、隣にいた男性のことだった。
「特別な人は、もういるのかもしれません」
「そうなの?」
「かも、ですが。もしそういう人がいるなら、想いを伝えるのは迷惑ですよね……」
「たしかにそれは考えものだけどね。『かも』なら、訊いてみてもいいんじゃない」
経験値の差なのだろうか、早瀬はいとも簡単に言う。しかしその口調を聞いていると、西矢にもできそうな気がしてくるから不思議だ。
早瀬が手を伸ばしてきて、何ものっていない西矢の皿を取った。
「それでダメだったらまた俺と一緒に飲も?」
皿にポテトサラダとハムが少しずつ盛られる。
「好きな人の代わりにはなれないけどさ。気分転換の手伝いくらいはするよ」
一人で悩まなくていいなら、乗り越えられるかもしれない。
自分には得難い先輩がここにもいる。
「……ダメじゃなくてもまた一緒に飲んでください」
「もちろん」
はい、と西矢の前に皿が置かれる。この店に来て初めて、美味しそうだと思った。