それから1週間後、浅賀の4回目の治療の日。西矢の携帯が鳴ったのは昼休みのことだった。
「西矢ー、電話。鳴ってる」
同僚の須田に呼ばれ、コーヒーメーカーの前にいた西矢は慌ててテーブルに戻る。置きっぱなしにしていた携帯のディスプレイを見て、西矢は「え」と小さく声をあげた。表示されていたのは『浅賀先生』。
前回の治療後は、結局重たい空気のまま別れてしまった。予定していた前歯の治療も提案できずじまいだったので、今日こそはと思っていたところだ。
携帯を掴んで西矢は早足で休憩室を出た。無人の待合室まで行き、急いで画面をタップして電話に出る。
「お疲れ様です、西矢です」
「お疲れ様。今、電話大丈夫?」
「はい」
治療の約束を取り付けたときに連絡先を交換していたが、浅賀から電話が来るのは初めてだ。浅賀の声は前回の治療のことを感じさせないくらいいつも通りで、逆に嫌な予感がした。
「今日の治療なんだけど」
聞いた瞬間、きっとこの言葉を予感していたのだと思った。このあとどう続くか大体見当がつく。ああ、ついにこう言われる日が来てしまったか。そう思いながらも、浅賀の言葉を待つ。
「急用ができてしまったから、またにしてもらえないか」
耳に流れ込んでくる浅賀の言葉は、台本でも読むかのように滑らかだった。
「わかりました」
「すまない。人に会う用事ができてしまって。断れなかったんだ」
「気にしないでください。治療はまたできますし」
「ありがとう。……じゃあ」
このまま電話を切られそうな気配を感じ取り、西矢はとっさに尋ねた。
「いつにします?」
「え?」
浅賀の声が急に硬質なものに変わった気がした。しかし構わず、畳み掛ける。電話を切ってしまったらもう浅賀が来ないような予感が頭の片隅にあった。
「次の治療です。代わりの日は、いつにしますか」
「あ、ああ……そう。そうだよな。決めておかないとな。……西矢はいつがいい?」
「浅賀先生はいつでもいいんですか?」
「今週はわりと余裕があるんだ。いつでも大丈夫だよ」
余裕があるなら、人に会う用事とやらも別の日にできなかったのだろうか。そんな疑問が浮かびかけて、西矢ははっとした。事情を知りもしないのに、自分勝手なことを。
「じゃあ、早速ですけど明日はどうですか」
「……ああ。分かった。時間は今日と同じでいいか?」
「はい」
「すまないな。じゃあ、また明日」
話が終わり、数秒の後に電話は切れた。
なんのことはない、急用ができて治療が今日から明日に変わった。それだけだ。なのにこの、自分の中にあるわだかまりは何だ? 誰に会うんだろう。治療の約束のほうが先だったはずなのに。明日、本当に来てくれるんだろうか。言葉にすればそういう疑念や不満だったかもしれない。だが、それらが確かな形を成す前に、西矢は考えるのをやめた。
(……俺、今すごく嫌な奴だった)
浅賀に元気になってもらうことが一番の目的のはず。本当に浅賀のためを思うなら、浅賀にとって大事な用を優先してもらうべきなのに。
一つ上の先輩、早瀬から言われた言葉をふいに思い出す。浅賀に治療を受けてもらうためにまずは親しくなろうとしていた頃、浅賀が他の同僚たちとは楽しそうに話をしているのに自分とはしてくれないと相談したときだ。「西矢くんがやきもち焼いてる〜」と、たしかそう言われた。やきもち。不本意ながらその言葉は今の自分にとてもしっくり来た。言われてすぐには深く考えなかったが、傍から見ればあのときには既にそうだったのか。
いや、でも、そういうのじゃないから。否定したいし、否定できると思う自分もまだいる。
この散らかった心の中をどう整理すればいいのか、西矢には分からなかった。