本条の働く歯科医院は俺の家から車で20分ほどの住宅街に位置している。休診日の今日、建物のすぐ横にある患者専用の駐車場に車を停めていいものか、少し離れた関係者用の駐車場を利用するべきか迷ったが、本条の車を建物横に見つけて俺もその隣に停めることにした。うちの医院でこれをやると院長から注意される、というかうちの場合休診日は患者用の駐車場にはチェーンが掛けてあり入れないようになっている。
エンジンを切る前に確認した時刻は10時45分、待ち合わせの15分前と少し早いが、中に入ってもいいだろう。待ち合わせのときには俺が15分程前に着いて本条が1、2分遅れてくるのが常だから、今日も彼はまだいないんじゃないかと思っていたが、準備があるせいか、さすがに今日は早く来たらしい。
駐車場と同じように、入口も果たして正面から入れるのか職員用の通用口を探したほうがいいのか迷ったが、本条なら深く考えないで正面の入口を開け放している気がしてそちらに向かうと案の定、扉はすんなりと開いた。
ここで本条は働いているのか。俺の勤務先よりもこじんまりとした待合室を見渡す。外観から比較的新しい医院だなとは感じたが、院内も広くはないものの洗練された印象だ。
「本条?」
人がいない病院というのはとても空気が冷たく感じる。しんと静まり返った院内を、俺は診療室と思しき方向へ歩いていった。細い通路に沿って半個室の診療室が並んでいる。その一番奥から、器具の触れ合う馴染み深い音が微かに聞こえてきた。
「本条、ちょっと早いけど着いちまっ……あれ?」
診療室を覗き込んだが、誰の姿も見えない。と思ったのも束の間、診療台に腰掛けている見慣れた後ろ姿に気づいた。
「なんだ、そこに座ってたのか」
診療台に近づき、座っている本条を見下ろす。
「お、おはよう、内田」
ぎこちなく笑みを浮かべながら俺を見上げてきた本条になにか強烈な違和感を覚えて思わず彼を凝視してしまった。なんで診療台に座っているのだろう。後ろから見たときは気づかなかったがユニットのライトも点いていて、ちょうど本条の口元あたりを照らしている。彼の顔から視線を落としてみると左手と右手にはそれぞれ、手鏡とデンタルミラー。俺の視線に気づいたのか、両手がその道具を隠すように動いた。
「……なにやってんの、お前」
「え? 検診」
「気になる歯でもあるのか?」
「あ、ああ、違う違う。内田のする前に自分のもしておくか、みたいな」
思いっきり目を泳がせてそれで誤魔化せていると思っているのか。まったく嘘の下手なやつだ。この動揺の仕方、明らかに怪しい歯があるに違いない。
「自分の検診って限界あるだろ? 俺が診てやるよ」
「い、いやいい。というか今日は内田の検診する約束だろ。早速やろ――」
そそくさと診療台を降りようとする彼を押し留め、俺はそばに置いてあった丸椅子に腰掛けると彼の右手からデンタルミラーを抜き取った。
「はい、口開けて」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
「診るだけだから。ほら、あーん」
本条の顎を軽く持ち上げる。ミラーを唇に触れさせると、肩が上がったのがわかった。揺れる瞳が俺とミラーを交互に映している。もしかしてこいつ、怖いのだろうか。あんまり無理強いするのも悪いか、という考えが頭を掠めたが、本条は観念したように目を閉じると小さく口を開いた。
自分でミラーを使って見ていたということは、上顎か。見当をつけて本条の顔をもう少し上げさせ、口の中を覗き込んだ。
「……なに、これ」
思わずそんな呟きが漏れた。ぱっと見えた右上だけでも明らかに穴が空いている歯や溝が溶けている歯が複数本確認できる。慌てて口内にぐるりと視線を走らせると、右上のような惨状ではないものの、やはり怪しい歯が散見された。
これは軽く診ていいものじゃない。じっくり検診しないと……ああ、いや先にレントゲンを撮るべきか? というかなんでこんな状態になってるんだ? かかりつけの歯医者で定期検診を受けていると言っていたのはまさか嘘だったのか。
気づけば本条が目を開けて不安そうにこちらを窺っている。俺は一旦ミラーを口の外に出し、本条に口を閉じるよう促した。
「ええと。言いたいことはいろいろあるけど……まずお前、定期検診行ってるって言ってたのは」
「前は行ってた」
「今は?」
「……虫歯がありそうだと気づいてから行ってない」
頭を抱えそうになった。それじゃ検診の意味ないだろ……。というか気づいてからって、何年前の話なのだろう。
「念の為訊くけど。治療の予約したりは」
「……してない」
「だろうな」
それなら、やるべきことは一つしかない。俺の検診をしてもらうつもりで来たはずが全く予定外だが、さっき見た感じ本条の治療をする方が先決だ。とりあえず検診して、今日のうちに酷いところを一本でも治療したい。
「本条、俺が治療する」
「え……でも今日は内田の検診を」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ。俺はまだ痛いとかじゃないから大丈夫」
「けど、痛み出してからじゃ遅――」
「お前、人のこと言えないよな? どこか痛いから自分で見てたんだろ。どこ? 右上?」
ぐっと本条が黙り込む。しばらくして、「右上の6番」と小さな声で返ってきた。
「よし、もう一回見せて」
両手で顎に触れると、本条は戸惑ったような目をしながらもそっと口を開けた。点けっぱなしになっているライトの位置を調節して口の中を照らし出す。もう少し開けて、と指示すると本条が体を強張らせながら口だけ少し大きく開いてくれた。
ミラーを滑り込ませて右上6番、先ほど大きく穴が空いていると思った箇所を映し目を向けると、どうやら咬合面に十字に入っていたインレーが脱離したあとのようだった。茶褐色の柔らかそうな象牙質が剥き出しになっていて、インレーが入っていたであろう縁の部分が黒ずんでいる。
「これ、取れたのいつ?」
「……わあんない」
覚えていないくらい前なのか、答えたくないのか。どちらにせよ随分時間が立っていることは間違いない。だいぶ深そうだ。痛みも相当だったのではないだろうか。
「よくもまあこんなに放置したな……」
会うのは約一ヶ月ぶりとはいえ、連絡はそれなりに取っていたのに全く歯が痛そうな気配はなかった。よく今日まで平気そうにしていたな、と驚きにも似た感情が込み上げてくる。少し視線を動かすと7番も遠心面から溶けているし、手前の5番も溝に沿って黒ずんでおりどうも怪しい。
「とりあえずパノラマと、あと右上のデンタル撮ろう。そのあと検診して、いけそうだったら治療までするけど、いいよな?」
ミラーを口の外に出し、質問というにしては有無を言わさぬ口調になってしまったが本条に問いかける。さっき口の中を見たときの彼の様子、そしてここまで溜め込んだくらいだ、恐らく治療は苦手なのだろう。また一言二言抵抗されるかと思っていたが、意外にも本条は素直に頷いた。
「あ、悪いけどレントゲン室まで案内してくれるか」
すっかり自分の職場で普段通り診療をしているような気になっていたが、ここは初めて来た歯科医院だった。それを思い出し案内を頼むと、本条はふっ、と小さく笑いながら俺の前に立って歩き出した。