前日譚 - 3/7

 先生が診察室を出ていくと、ぽろぽろと涙が溢れ出した。

「和瑚ちゃん」

 倉木さんが私の肩に手を置いてティッシュを差し出す。

「ごめんなさい」

 ティッシュを取って涙を拭き、鼻をかむ。倉木さんが肩をさすってくれた。

「大丈夫。泣きたかったら我慢しなくていいんだからね。芳野先生も私もそれで怒ったりしないよ」
「……芳野先生も?」
「うん」
「でも、今日は……」
「芳野先生は、きっと和瑚ちゃんに痛い思いしてほしくないだけ。和瑚ちゃんが嫌いで怒ってるわけじゃないよ」
「そうかな……」

 後ろから足音が近づいてくる。大丈夫だからね、と倉木さんが私の背中を優しく叩いた。
 倉木さんの手が離れると同時に、芳野先生が診察室に戻ってきた。器具の載ったトレイが台に置かれ、音を立てる。

「頑張ろうな。椅子倒すよ」

 その声はもう怒っているようではなかった。そっと左後ろを見ると、倉木さんが頷く。
 診察台が倒れていき、ライトがついた。

「塗る麻酔するよ。あーん」

 口を開けるとミラーが入ってきて頬の内側が押され、薬のついた綿が歯茎の上に置かれる。ずきんずきんと歯が痛むのを感じたまま、塗る麻酔が効くのを待った。
 2、3分経ってタイマーの音が鳴ると、もう一度口を開けるように言われた。
 綿が外され、先生が口の端をぐっと引っ張る。

「ちょっと押すよ。力抜いててなー」

 いつも麻酔をするときと同じ、優しい声。少し安心して目を閉じた。
 痛みはないけど右下の歯茎に針が刺さったのが分かる。薬が入ってだんだん腫れぼったくなってくる。苦手な感覚で、先生に言われたこととは逆に体に力が入っていき、倉木さんに手を撫でられた。

「和瑚ちゃん、お鼻でゆーっくり深呼吸してね」
「ん……ふぅ……」
「上手。その調子だよー」

 歯の裏側からも針が刺される。倉木さんに声をかけてもらいながらなんとか乗り切り、診察台が起こされた。
 いつも通りに戻ったかと思っていたけど、なんだか芳野先生の口数が少ないのが気になる。うがいをしたあと後ろの様子を窺うと、芳野先生は歯を削る機械を準備していた。慌てて前を向く。見ていたら怖くなりそうだ。先生と目を合わせる勇気もなかった。