右手で押さえた頬の下で歯が疼く。
周りの診察室から器具の音や歯を削る音が響いてくる。そんな、嫌でも耳につく治療の音に交じって足音が近づいてきた。
「こんにちは、和瑚ちゃん」
声に振り返る。芳野先生と衛生士の倉木さんが診察室に入ってきた。
「こんにちは」
うん、と先生はいつものように笑ったけど、視線はまっすぐ私の頬に向けられていた。おずおずと頬から手を離す。先生の視線が少しずれて目が合った。
「だいぶ痛む?」
「はい……」
「そっか。診てみような」
先生が椅子に座り、手袋をつけ始める。
「エプロンするね」
倉木さんが横から私の首周りに手を伸ばしてエプロンをつける。青は好きだけど歯医者さんのエプロンの色は好きじゃない。白っぽい水色。
さっきまで別の診察室から聞こえていた器具の音がすぐ後ろで響いている。
「椅子倒すよ」
膝に置いていたハンカチを握る。診察台が倒れていく間も歯はずっと疼いていて、体じゅうに力が入った分、痛みが増した気がした。
「問診票見たけど、右下の奥から2番目だよな?」
眩しいライトを私の口元に合わせ、先生が尋ねた。
「はい」
「ん。じゃあ開けてな」
ミラーが口元に近づく。疼く歯に顔を顰めながらも小さく口を開けた。
「もう少し。あーん」
指で口の端を引っ張られ、私はぎゅっと目を瞑った。
ひどい状態なのは分かっていた。
こまめに検診に来るように何度も言われたのにさぼりがちで、今痛いところも詰め物が外れて何ヶ月も放置していた。そのうちに歯が欠けて、痛みを我慢できなくなってようやく歯医者さんに来たのが今日。こんなに痛くなったのは初めてだった。
「ん……これは、なぁ……」
ミラーで頬の内側を広げながら、独り言みたいに先生が呟く。いつもより低くて暗い声。恐る恐る目を開けると、先生は眉を寄せている。
何も言われないまま検診が続き、全体を見終わったあと、先生が私と目を合わせた。
「和瑚ちゃん。右下、急に痛くなったのか?」
「……」
「虫歯だって気づいてなかったのに、昨日今日で痛み始めた?」
じっと見下ろしてくる芳野先生は私の知っている先生となんだか違う。
今まで何度か虫歯を放置してしまっても怒らず「よく頑張って歯医者に来てくれたな」「次からはもう少し早く診せてな」と優しく言ってくれていたのに、今日は許してもらえないような気がした。
泣きそうになって先生の質問に答えられず、首だけ横に振る。
「そうだよな。……なんでこんなになるまで我慢するんだよ」
芳野先生の声は怒っているようにも悲しそうにも聞こえた。
「は、歯医者さん、こわくて……」
「和瑚ちゃんが歯医者苦手なのは知ってる。だけど、だからなおさら早く来てほしかったんだよ。虫歯が進行すればするほど治療も辛いから」
それも、前に同じようなことを言われていた。分かってたのに。
涙が滲み出す。震える唇をどうにか動かした。
「……ごめん、なさい」
「俺には謝らなくていいよ」
カシャンとミラーを置く音がして、診察台が起こされた。
「治療の準備するからちょっと待っててな」