20歳の冬 - 4/6

「削っていくよ」
 再び診療台が倒され、バキュームとタービンを持った兄ちゃんに見下ろされると、とうとう涙が溢れてしまった。
「謙斗、どうした」
 嫌だとか悲しいとか言えない。
「なんでもない」
 それしか言えなくてひたすら涙を拭う。器具を置く音が聞こえて、兄ちゃんが両手で俺の顎に触れた。
「なんでもないのに、涙は出ないだろ」
「……ほっといてよ」
「ごめんな。弟が泣いてるのにそれはできないよ」
 俺が黙ると、兄ちゃんはガーゼで目元に残っていた涙を拭ってくれた。
 そんなことをされると突き放せない。そればかりか本心が口からこぼれ落ちる。
「前歯……嫌だ……」
「治療が?」
 小さく頷くと、「嫌だよね」と言いつつも兄ちゃんの手は頬から離れていった。
「でもね」
 横でキャビネットから何かを出す音がする。
「これ持って。見てごらん」
 渡されたのは手鏡だった。
「見たくない……」
「自分で見たことある?」
 しっかり見たことはない。鏡を見るときも目を背けていた。黙っていると兄ちゃんの指が唇に触れた。
「見たほうが治療しようって気持ちになると思うよ」
 しぶしぶ口を開けると唇が捲られる。
「ここ。右上の1番と2番の間、見える?」
 兄ちゃんが歯に指を置いた。指先には1番と2番の隣接面。2番には小さな穴が空き、その周りが薄い灰色に変わっていた。
(うそだ……)
 目を背け続けている間にここまで酷くなっていたなんて気づかなかった。兄ちゃんが俺に見せた意味がわかる。これは治さないほうが見苦しい。友達も俺と喋るときに気づいていたかもしれない。どう思われていたんだろう。
 手鏡を伏せ、兄ちゃんに突きだした。
「見た。治療する」
 兄ちゃんは手鏡を受け取り、俺の顎に優しく触れる。
「頑張ろうね。綺麗に治すから」
「お願い、します」
「うん。任せて」
 再びバキュームとタービンが口元に近づいてくる。
「あーん」
 大嫌いな音を聞きながら目を閉じる。小さく口を開けるとバキュームで唇が捲られ、バーの先が歯に触れた。瞼の下で涙が滲んでくるのを感じた。