翌日、診療時間が終わる頃に兄ちゃんの働く歯科医院へ行った。この時間に来るようにという指示だったけど、待合室にはまだ患者さんが数名残っている。兄ちゃんの姿は見えない。
入口近くでどうしようか迷っていると、受付から視線を感じたのでそちらに近づいた。
「あの、青海結斗と約束してる者なんですが……」
「ああ、もしかして弟さんですか?」
受付の女性は俺の顔を見てすぐにわかったらしい。兄ちゃんも話を通しておいてくれたのだろう。
「そうです」
「青海先生からお話は聞いています。中でお待ちいただけますか」
女性に案内され、診療室へ入る。診療台に座ると、兄ちゃんを呼んでくる間しばらく待つように言われた。
横のテーブルにはエプロンや滅菌パックに入ったままの器具が準備されている。少し視線をずらせばタービンも目に映る。
今まで奥歯の治療しか経験がない。奥歯だって嫌だけど、前歯が削られてしまうんだと思うと治療が始まる前から泣きそうだった。喉が苦しくて唾を飲み下す。
しばらく待っていると、後ろから足音が近づいてきた。
「謙斗、お待たせ」
一瞬、昨日の兄ちゃんを思い出して怖くなる。でも俺の顔を覗き込んだ兄ちゃんは怒ってもいなければ悲しそうでもない、いつも通りの様子だった。
「あれから気分は大丈夫?」
グローブをつけながら兄ちゃんが訊く。
「大丈夫。二日酔いにはなってないって朝も言っただろ」
「そうだったね。じゃあ早速だけど始めるか」
手際よくエプロンがつけられる。続けて診療台が倒され、ライトがついた。
「軽くでいいから開けて」
ミラーが歯と唇の間に入ってくる。前歯が剥き出しになっているのを想像すると恥ずかしくて目を閉じた。
「風かけるよ」
スリーウェイシリンジが近づいてきた気配がする。体に力を入れたのと同時にシュッと音がした。
「んぁ……っ」
前歯がジンジンと沁みる。ミラーで唇を捲ったまま、兄ちゃんはそこをじっくり診ているみたいだった。
「小さいけど……表までやられてる」
裏からも診た後、ミラーは表に戻ってきて唇を圧排した。
「表面麻酔するね」
今度は歯茎にエアーがかけられる。その後、薬剤をつけた綿球とロールワッテが置かれた。
兄ちゃんは麻酔が上手いけど、前歯の麻酔も痛くないんだろうか。表面麻酔が効くのを待っている間そんなことを考えて気持ちは休まらなかった。初めてのことで不安が大きい。
あっという間にタイマーが鳴って、綿球とロールワッテが取り除かれる。兄ちゃんの指が唇を上に引き上げた。目を固く瞑り、組んだ手を握りしめる。
「大丈夫だよ、謙斗。力抜いてて」
なかなか難しいけど、ゆっくり深呼吸して力を抜こうとしてみる。
「ん……」
吐いた息に声が交ざる。ツンと押されたような感触の後、歯茎が膨らむような違和感があった。
「よし、一回うがいしてね」
唇が腫れているような感じがする。うがいもやりにくかった。奥歯の治療のときとは少し違う感覚にまた泣きそうになって、麻酔が効くのを待つ間ずっと兄ちゃんから顔を背けていた。