歯医者から帰ってきた男の子

「うーん、結構欠けてるね、ここ」
 先生が俺の口の中を見て眉を顰めたのが分かった。
「随分前から痛いの我慢してたんじゃない? こうなると治療も大変なんだけどな……」
 そんなこと、俺だって分かってたけど。この前痛い治療をしたときに次は早く歯医者に来ようって思ったのに、やっぱり怖くてまた来れなかった。いつになったらこんなことやめられるんだろう。
「麻酔して削るよ。少し痛いかもしれないけど、頑張ろうね」
 ずきずきと左上が痛む。歯の欠片はまだ虫歯の穴に入り込んだままだった。治療が少し痛いで済んだことなんてあまりない。きっとすごく痛いんだろうな。
(……大丈夫、慣れてるし)
 小さく震え出した手でぎゅっと制服のシャツを掴んだ。

 治療が終わって帰宅した頃にはすっかり暗くなっていた。
「ただいま」
 キッチンを通って自分の部屋に行こうとすると、母さんが夕食の準備をしているところだった。
「おかえりなさい。歯医者行ってきたの?」
「うん。……麻酔したから、ご飯、あとでいい」
「麻酔? また酷かったの?」
 母さんは何気なく言ったんだろうけど、「また」という言葉は思いのほか深く胸に突き刺さった。
「……また酷かった。だめだね、俺ほんと。ごめんね」
「あ、ちょっと待ちなさ……」
 追いかけてくる母さんの声を無視して部屋に入り、ぱたりと扉を閉める。電気もつけないまま鞄を放り投げ、膝を抱えて床に座り込んだ。
「…………うっ」
 歯医者からずっと我慢してきた涙が溢れ出した。キイイィィン……と、耳の奥に残った大嫌いな音がまた聞こえてきた気がした。
 今日も、すごく痛かった。何度も口を閉じそうになってしまって先生もちょっと苛立ってるみたいだった。「これだけ放置してたんなら、痛いのは仕方ないからね」という冷たい声。全部俺が悪いのは分かってる。だけど痛いのも怖いのもどうしようもなくて、我慢できなくて。ぐいっと口を開かせるゴム手袋の指の感触。思い出しただけでまた手が震えそうで、膝を抱えたままぎゅうっと腕を掴む。
「……っく、う」
 泣き声が漏れてしまいそうで唇を噛み締めた。何度目だろう、歯医者から帰ってきてこんなふうに泣くのは。そしていつも泣いた後に思うのは次の歯医者は行きたくないな、なんてことで。
「も、いやだ……」
 歯医者も虫歯も、汚い自分の歯も嫌いだ。そして情けない自分が何よりも嫌だった。

2024-04-28